サラマンドラの水槽

μία γὰρ χελιδὼν ἔαρ οὐ ποιεῖ, οὐδὲ μία ἡμέρα. (Arist. EN. 1098a18-19)

「『分析論後書』におけるヌースの意味」

James Lesher ' The Meaning of Nous in the Posterior Analytics '

 

私の『後書』読解の方法を大きく変えた論文を再読しました。

著者はJames Lesher。古代ギリシアの知識概念についての論文が数多くある大物です。また、『アペイロン』誌第43号の From Inquiry to Demonstrative Knowledge: New Essays on Aristotle’s Posterior Analytics (2010)編者でもあります。

この論文は、他の知識概念についての論文とともに、著者の教員紹介のページでリンクフリーになっています。

 

本論文では、まず導入部分において、ヌースに対する(知的)直観という規定が拒否されます。本論文における著者の目的は三つあります。①アリストテレスのテクストを、単なる「第一の諸原理の把握」という観点からではなく、より一般的に「洞察(insight)」や「普遍的原理の把握」という観点から読み解く。②アイステーシスやエパゴーゲーとのヌースの関係を指摘することによって、アリストテレスの意図するヌースが日常的な経験的知識と異なるところの直観ではないことを明らかにする。③B巻第19章におけるヌースの説明がアリストテレスの認識論全体ときちんと一致しているということを示す。

 

第一節では、まず『後書』を『魂論』から理解する方法の是非が問われます。この方法は、『後書』のヌースがエピステーメーと対比される「心の状態(a state of mind)」であるのに対し、『魂論』のヌースは単に「心」か「魂の思考的部分」でしかないがゆえに取れません。

また、『後書』のヌースをプラトンのヌースから理解する方法も取れません。プラトンアリストテレスの用語法の違いは、たとえばウーシアの用例が違うことからも明らかです。同じ理由から、アナクサゴラスをはじめとしたフォアゾクラティカーから理解することも無理です。

しかし、アリストテレスの使用する用語である以上、どこかに由来はあるはずだと著者は述べます。Von Fritzによると、哲学以外の領域においては、ホメロスが "realization through perception" という意味でヌースを使用しています。哲学の領域では、パルメニデスが推理と推論の意味でヌースという言葉を使用しており、それ以外のフォアゾクラティカーは「知覚を通した知識の所有」を意味しているように思われます。

こういった人々と異なり、プラトンは『国家』第六巻などでヌースとアイステーシスを鋭く対比させます。プラトンの場合、ヌースとは思考の対象です。しかしそのプラトンでさえも『パイドロス』229c4や『ティマイオス』37c6等で、知覚認識をヌースの最も特徴的な機能であると捉えていることがわかります。ゆえに、アリストテレスの使用するヌースを知的直観と訳すことはかなり問題があるのです。

 

第二節では、アリストテレスのヌース概念は単に第一の諸原理を把握することに制限されるものではなくて、一連の個別的状況の観察からそれぞれの状況で機能する普遍的な原理を把握するものであると解釈する可能性があることが示唆されます*1。この際にヌースは学的発見の最後に位置づけられます。学的発見によって獲得された普遍的原理を把握している状態、それこそがヌースなのです*2。 

第二節の結論は、ヌースとエパゴーゲーが普遍的原理を把握する活動の二つの側面だということです。つまり、普遍的原理を把握する活動は、それをヌースの働きとして捉えれば認識論的な特徴づけを被り、エパゴーゲーの働きとして捉えれば方法論的な特徴づけを被るのです。

 

第三節では、ヌース概念の直観性ということについて詳細に論じられます*3。結局のところ、ヌースが直観的かどうかは、われわれが「直観的」という言葉をどのように使用するかに依存します。直観するということが何らかの命題の真を洞察することである場合には、直観という言葉を使用しても不都合はないでしょう。しかし、直観という言葉にア・プリオリという規定を行ったとき――つまり非経験的な含みをもたせたとき―― 、それはアリストテレスの意図するヌースではなくなるのです。

第三節の結論は、自然学・数学・倫理学のいずれにおいても、アリストテレスは程度は違えど経験の役割を重視していたということです*4。それゆえに、アクィナスのように第一原理は「自明な」真理であると考えることはできません。アリストテレスにとって第一原理とはあくまで経験を伴ったものであり、それは間違ってもア・プリオリなものではありませんでした。

 

第四節では、理論的知性と実践的知性がしばしば対比させられることから、今までに行ってきたヌースについての議論を実践的な議論のうちで扱う試みがなされます。

実践におけるヌースは、しばしば個々の状況における適切な行為にのみかかわると解されてきました。『ニコマコス倫理学』Z巻の中には実際にそのように解することのできるテクストもあります。しかし、著者はヌースの役割はそれだけではないと述べます。普遍的な道徳的原理についてのわれわれの知識もまた、ヌースを伴った経験による洞察から獲得されるのです。

このような著者の議論は、『動物運動論』701a6-25からも補強されます。そこからは、ヌースが、第一原理の把握と、なされるべき個々の行為の知覚のどちらかに制限されるものではないということが読み取れるのです(実践におけるヌースについての以上のような読みは、私の日本倫理学会での発表内容と近しいように思います)。

第四節の結論は、理論的知性と実践的知性は明らかにパラレルであり、理論的知性における説明の諸原理の把握と推論の完成は、実践的知性における目的とそのための方法とに対応するということです。

 

本論文はアリストテレスのヌース概念についての全体的な見通しを与えてくれるものです。特に、ヌースを知的直観として捉えることを拒否する一貫した姿勢は私自身おおいに賛同するところでもあります。仮に知的直観として解される役割がヌースの中にあるとしても、その役割は最小限のものに抑えこむ必要があるでしょう。

ただし、第四節における理論的知性と実践的知性の問題は、ページ数が少ないこともありより詳細な考察が可能であると思われます。私の今後の課題の一つです。

*1:この普遍的諸原理の特別な種類が第一原理であると後に述べられている(p. 62)

*2:著者はこの議論の中で、A巻第34章における「頭脳明敏(アンキノイア)」にも着目している

*3:なお、この節では第一原理の身分についても語られます。著者は、B巻第19章における第一原理は普遍概念ではないと述べます。カトルーという言葉が『後書』において普遍概念の意味で用いられていないということが理由の一つです(pp. 60-61)。

*4:また、弁証術においても。というのも、弁証術はエンドクサという「経験」から始まるから。エンドクサは類似のものを集める際に有用なものです。