プラトン『ゴルギアス』
- 作者: プラトン,加来彰俊
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1967/06/16
- メディア: 文庫
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某所で色々やっていたことを記憶しておくために、「解説」からの引用でまとめておきます。(強調は私自身によるものです。)
『ゴルギアス』の特徴
とはいっても、この対話篇ではまだ、後の作品においてよく見られるように、ソクラテスだけが主な話し手になっていて、相手方のほうはただ、「イエス」とか「ノー」と答えるだけの、形式的な対話人物となっているのではない。いな、ソクラテスとその問答相手たちとは、互いに問い手になったり答え手になったりしながら、文字通りの「対話」を交わしており、そして両者の挑戦と応酬によってつくり出される緊張が、この対話篇を一個のすぐれた劇作品としているのである。その点では、プラトンの数多くの対話篇のなかでも、おそらくこの『ゴルギアス』ほど真の意味で「対話篇」の名に値する作品は、他にはないといってよいかも知れない。(p. 335)
哲学無用論との対決
そしてこの対話篇は、よく言われるように、「アテナイの現実政治に対するプラトンの訣別の辞」であり、あるいは、「現実政治への参加を勧めた友人や知人たちへの彼の最終的な回答」であったということにもなるであろう。かくて、プラトンの哲学は、政治への志が挫折して生まれたものであるけれども、しかしまたそれは、「回り道してもう一度政治へ帰ること」であったとも言われている。そして哲学と政治の関係については、哲学が実社会の側からのきびしい批評、カリクレスが語っているような徹底した哲学無用論をくぐり抜けて確立される必要があるように、政治のほうも哲学の側からの原理的な反省、ソクラテス的な吟味反駁をつねに受けなければならぬというのが、プラトンの考え方であったように思われるのである。(p. 340)
弁論術と政治の関係
しかし、この対話篇で問題にされているのは、そのような単なる言論文章の技術としての、つまり雄弁や修辞の術としての、弁論術それ自体ではなくて、むしろそれは、広く法廷や議会の場に応用されて、実は一種の政治の術として受け取られていた弁論術なのである。そしてそのことは、最初のソクラテスとゴルギアスとの問答において、弁論術の本質がたずねられていたときに、すでに明らかにされていたことなのである。(pp. 343-344)
弁論術とマス・コミュニケイション
この点を現代のわれわれの問題にもうすこし近づけていえば、弁論術はさしずめ今日のいわゆるマス・コミュニケイションの術に相当するだろう。そして、大量消費と生活享受が合言葉となっている現代社会で、マス・コミュニケイションの種々なメディウムが行なっている仕事の大半は、ちょうど弁論術の仕事がそうであったと言われているように、「迎合」にあるといって過言ではないだろう。したがって、かりにわれわれが現代社会の享楽主義的な風潮を批判しようとするにあたって、まずその手がかりとしてマス・コミュニケイションのあり方を問題にするとしたら、というような類推で考えて見ることもできるわけである。(p. 349)
現実政治と哲学の対決
ここでカリクレスとソクラテスによって代弁されているような二つの生活理念の対立は、いつの時代のどの社会においても見られる普遍的な現象であること、またカリクレスはソクラテスの論理の前に沈黙しただけであって、心から納得したのではないから、ソクラテスの勝利はつねに新たに確認され、維持されなければならないものであることも忘れてはならないだろう。(p. 359)