サラマンドラの水槽

μία γὰρ χελιδὼν ἔαρ οὐ ποιεῖ, οὐδὲ μία ἡμέρα. (Arist. EN. 1098a18-19)

日本倫理学会第64回大会

日本倫理学会で10月6日に発表してきました(プログラム)。

題目は「実践における知性――アリストテレス『ニコマコス倫理学』Z-H巻における個と普遍の観点から――」、司会は京都大学の水谷雅彦先生です。

原稿(pdf): https://docs.google.com/file/d/0Bzk8O7t8Llx-ZG1QY1p1M0cxZVE/edit?usp=sharing

 

今回の原稿はアクラシア解釈等についてある種大胆なことを述べているということもあり、正直に言えば隙の大きいものとなっています。

実際に、会場での質疑応答でも見事にその点を突かれました。

ただ、『ニコマコス倫理学』解釈で「知性」概念を重視するという本稿の方向性に関しては、そこまでおかしなものではないと自負しております。

近年、『ニコマコス倫理学』Z巻についての研究がReeveを中心にして見直されてきているという事情もあるので、倫理学研究に関してはこの方向性で突き進むつもりです。

 

以下、会場・懇親会・その他の場所で出た質問と、それに対する私の現時点での応答のまとめです。

 

・実践的推論(practical syllogism)とは、すべての倫理的(ないし道徳的)行為に先立って、必ず前提されるべきものなのか。あるいは、アクラシアが実際にこのように生じるということを、後に説明するために必要とされるものなのか。

→『分析論後書』における「論証(アポデイクシス)」解釈の一つとして、論証とは教師が生徒に教えるために必要とされるものであるという解釈がBarnesの古典的論文のうちにあります。論証とは推論の一種であるので、『ニコマコス倫理学』においても、アクラシアの構造を後に説明するものとして実践的推論を解釈することは不可能ではないと思われます*1

 

2013/12/12追記

この問題に関しては、たとえば以下の本のpp. 168-175を参照。

 

 

Aristotle's De Motu Animalium

Aristotle's De Motu Animalium

 

 

 

本稿のうちの、目的としての普遍(幸福ないし最高善)と、知性を伴った感覚が個々の事例のうちに見て取るところの諸々の普遍はどう繋がるのか。

→私の今回の発表の根本的な部分にある問題です。この問題について、現時点では明確な応答ができないというのが正直なところです。何らかの関係がある事自体は間違いないと思っているので、H巻第3章をより詳細に解釈していく必要があると思います*2

 

・T4から本稿のような解釈を提出するには議論が足りないのではないか。

→そのとおりだと思います。より詳細な解釈は可能ですし、実際に行っていく所存です。

 

・本稿の「或る種の感覚」は、結局のところ『魂論』における付帯的感覚ではないのか。

→本稿で参照している金子先生の論文でも、「或る種の感覚」=「付帯的感覚」という解釈がなされていたように思います。ただ、本稿の「或る種の感覚」を、私は知性を伴った感覚と解しているので、「或る種の感覚」=「付帯的感覚」という図式が成り立つかどうかについては、『魂論』内部の議論も含めたより詳細な解釈が必要であると考えています。

 

・言葉(ロゴス)が実際の行為に与える影響についてどう考えているのか。

→この問題も、アリストテレスの行為論を考える上で最重要の問題の一つだと思います。現段階では明示的な解答が不可能です。

 

関連文献

 

Aristotle on Practical Wisdom: <i>Nicomachean Ethics</i> VI

Aristotle on Practical Wisdom: Nicomachean Ethics VI

 

  

Aristotle's: Nicomachean Ethics (Symposium Aristotelicum)

Aristotle's: Nicomachean Ethics (Symposium Aristotelicum)

 

 

*1:この問題は非常に重要なので、あくまでその解釈の可能性があると言うだけにとどめておきたい

*2:CharlesのH巻第3章についての論文が参考になりそう