サラマンドラの水槽

μία γὰρ χελιδὼν ἔαρ οὐ ποιεῖ, οὐδὲ μία ἡμέρα. (Arist. EN. 1098a18-19)

ローレンス・バンジョー&アーネスト・ソウザ(上枝美典訳)『認識的正当化―内在主義 対 外在主義―』

 

認識的正当化―内在主義対外在主義

認識的正当化―内在主義対外在主義

 

   

Epistemic Justification: Internalism vs. Externalism, Foundations vs. Virtues (Great Debates in Philosophy)

Epistemic Justification: Internalism vs. Externalism, Foundations vs. Virtues (Great Debates in Philosophy)

 

 

 

日記とは別にエントリーを作って、勉強がてら、引用しつつまとめていくことにしました。本当は原著にもあたるべきなんでしょうが、まずは邦訳ということで。

→2/8に読み終わりました。徳認識論の勉強をさらに進めて、一年後ぐらいにまた読みなおしてみたい本です。その時はぜひ原著で……。

このエントリーは私の読書が進むに連れて順次追加されていきます。あと、現在のはてなブログでは傍点を付けるのが困難なので、その箇所は太字にして対応しています。

 

バンジョー 

1.遡行問題と基礎づけ主義

1.5.「知識という概念」

知識という概念は、哲学的にも常識的にも重要なものだが、それは複数の点で深刻な問題を抱えていると思う。私は、逆説的に聞こえるかも知れないが、認識論の冷静な議論においては、知識の話を極力避けておくのが望ましいとすら思っている。

[……]

知識という概念を満足させるためにはどの程度の正当化が必要か。これは、一見すると初歩的で、明らかに根本的な問題である。しかし、このように見てくると、現在のところ、この問題には満足できる答えがないだけでなく、答えが見つかる見込みすら薄いということがわかる。(pp. 21-23)

 ここに至るまでのバンジョーの議論を読んでいて気になっていたところ。認識論(epistemology)を扱う際に知識(ἐπιστήμη)の定義を行わないというのは確かに逆説的だと思います。

 

2.正当化の外在主義的説明

2.6.「内在主義は不可欠である」

よく外在主義者は、自分が、ふつうの人には利用できない理由を明らかに見ることができる視点に立っているかのように論じることがある。しかし、だまされてはいけない。たとえば、外在主義者は、知覚による通常の物理的対象についての信念は、信頼できるかたちで生じているので、ほとんどが真であることは明らかだ、などと言う。しかし、外在主義が遡行問題に対する唯一の解答だとすると、そのような視点は誰も手に入れることができない。誰のどんな種類の信念であれ、そこから見てそれが事実として信頼できるかたちで生じていると考えられる理由があるような視点に立っている人は一人もいない。したがって、外在主義者は、信念が、誰にもアクセスできないかたちで、信頼できるように生み出されている可能性について、つまりそれらが外在主義的な意味で正当化される可能性(それが実現されるか否かは別にして)について、むしろ語るべきである。しかしこうなると、外在主義が懐疑主義に対して持っていた強みは完全に失われるだろうと私は思う。(p. 48)

 

 直前の2.5.までは内在主義と外在主義の両立を説いていたバンジョーが、やはり内在主義の方がより根本的な立場であると主張する論拠の一つ。原文見ていないからわからないけど、邦訳だと結構きつい調子で言っている。

 

3.整合主義を求めて

外在主義の場合には、少なくとも前向きの、広い意味で「自然主義的な」動機が働いていたけれども、整合主義をとる主な動機は、純粋に議論上のものである。それは、ただひたすら基礎付け主義を避けるということであり、整合主義そのものの中に、第一印象として正しいと思わせるような実質は存在しない。(p. 52)

手厳しい。われわれは整合主義をネガティブな仕方でしか求めていないと言われている。

 

3.3.「さらに深刻な問題」

このような議論を通して現れる整合主義は、どう見ても、不安定で問題が山積している。当初から、議論の中で守勢であり、多くの批判や反論に苦しみ、それらを一時的にくい止めるのがやっとであり、決定的に答えたことはほとんどない。もちろん、最初からほとんど勝ち目がないとは言え、基礎づけ主義に対する見かけ上の強さを考えれば(私の判断だが、外在主義は、私達がここで関係している認識論の中心問題に対する解答として不十分である)、整合主義を発展させ弁護する試みは、追求するに値する研究に思われたのである。しかし、いまや認めるときが来た。整合主義という提案を、存立可能な認識論に育て上げる試みは、ついに成功しなかった。今後も成功しえないことはほぼ確実だと私は思う。これまでの議論から、この結末は、おそらく十分に明らかだろう。(p. 65)

 バンジョーが整合主義をこれほどまでに批判するのは、かつて自身もその立場をとっていたからである。

 

The Structure of Empirical Knowledge

The Structure of Empirical Knowledge

 

 本章は、いやむしろこの本におけるバンジョーの議論は、過去の自身を反駁するためにあると言ってもいいのかもしれない。こっちの本は読む時間とれないだろうなと思います。

 

10.ソウザへの回答

10.1.「内在主義と外在主義(さらにもう一度)」

最初に注意すべきことは、これが、本質的に一人称の問題だという点である。実際、この問題は、少し前に述べた一人称複数よりも、一人称単数で述べたほうがうまく捉えられる。基本的な問題(最後には、各人がこの問いを自問しなければならない)jは、は、私の信念が真だと考えられるような理由を持っているか(そして、もし持っているのならば、その理由はどのような形態をとるのか)という問いである。これが内在主義へ導くのは、問題の理由は、私が持っている理由だと考えられるからである。もちろん、この「持っている」は、私がそれを「はっきりとあらゆる瞬間に持っている」というような、ありえない意味ではなくて、多かれ少なかれ、「すぐに利用できる」、あるいは「アクセス可能」という意味である。(p. 233) 

「私たちは、世界についての私たちの信念が真である(あるいは少なくともほぼ真である)と考えるよい理由を持っているか?持っているのであれば、その理由は具体的にどのような形態をとるのか?」(p. 232)という問いをバンジョーが詳述したもの。一人称複数ではなく一人称単数で捉えるというところがおそらくミソで、バンジョーはおそらく共同体における知識獲得のプロセスのようなことを考えていないと思われる。徳認識論の場合には、むしろ「私たち」が決定的に重要になる。

 

10.2.「ソウザの徳認識論(そしてさらに再び内在主義と外在主義について)」

ソウザ自身の認識論上の立場は、かなり複雑なタイプの徳認識論である。ただし、徳認識論と呼ばれている最近の諸見解とは、通常、知的徳として記述されるもの、たとえば知的勇気や虚心さなどにほとんど強調点を置いていない点で、かなり異なる。(p. 244)

私がソウザの徳認識論についての議論を読んでいて感じていた疑問を、かなり明確に定式化してくれている。おそらく、(これ以降のソウザがどのような立場をとっているのか勉強不足で分からないが)この時点でのソウザは個々の知的徳にそれほど関心を持っていなかったのではないかと私は読んでいて感じた。

 

 ソウザ

6.知識と正当化

6.2.「命題的知識」

このゲッティエの手法が、正当化された偽なる信念に依拠する点に注意しよう。もしも、正当化された信念が偽でありえないならば、そもそもゲッティエ問題は生じない。したがって、この問題は、直観や演繹といった安全装置付きの機能だけを認める合理主義者には衝撃を与えない。このような機能だけを認めるのであれば、正当化された偽なる信念というものがありえないことになるので、ゲッティエ反例の餌食にならずに済む。しかしそうなると今度は、この合理主義者は、実際には超知識であるような知識概念や、超正当化であるような正当化概念を用いて仕事をすることになる。しかし、自分自身や他人について「知識」や「正当化」を語るとき、そのようなものはめったに出現しない。だから、もっと現実的で緩やかな認識論は、正当化されているが偽であるような信念の可能性を認める。しかし、そうすると、ゲッティエ問題が生じる。

 

 偽でありえない超知識を想定する合理主義者にはゲッティエ反例は無意味である。しかし現実には、そのような厳密な知識を獲得したいと望む人々は極小数である。合理論的な考えは常識に合わず、よりゆるやかな知識をわれわれは認めざるをえない。そうするとゲッティエ問題が生じる。

アリストテレスが『分析論後書』で展開しているのは厳密な意味での知識についての認識論なので、そことゲッティエ問題との折り合いをつける必要があるかもしれない。

 

6.7.「帰ってきた基礎づけ主義」

[……]身の回りについての直接経験によって知られることも基礎に含むような経験主義である。ところで、この拡大された基礎を、三つの部分に分けて考えよう。直観的部分、内省的部分、観察的部分の三つである。さて、合理的直観とは何だろうか?それは、推論を伴わない、何か論理的に必然的なことについての真なる信念だろうか?ちがう。何か必然的な事柄についての信念は、推測、迷信、そして洗脳によっても生じうるが、このような信念はどれも知識でない。同じ問いを繰り返す。合理的直観とはなんだろうか?

本当に、合理的直観とは何だろうか?

 

9.徳認識論

9.7.「結論」

より完全な徳認識論には、V理論、つまりVaとVb、そしてVアプトとVアドロイトという原理だけでなく、知識、および、知識と信念、真理、正当化、機能との関係について、以下のことが盛り込まれる。

ある機能が働き、ある人に信念を与え、それによって直接的な知識を与えるとき、その人は、自分の信念とその源泉に、そして、その源泉の徳に、一般的にも個々の事例においても、気付いていなければならない。したがって、その環境において、人は(ほとんどの場合)、Pであるような時に限り(only if P were the case)、Pと信じるのでなければならない。つまり、その人の信念は、安全(safe)でなければならない。より厳密に言えば、その人の信念は、有徳な源泉から安全に出てくる指標に基づいていなければならない。最後に、その人は、自分の信念が、偶然でなく、Pという真理を反映していることを、Pの指標を受け入れることを通して、そして、そのように認知的徳を表明することを通して、把握していなければならない。ゆえに、十全な理論は、安全性信頼できる徳(reliable virtues)、認知的視野(epistemic perspective)という要件を組み合わせたものになるだろう。この論文は、その完全な弁護でない。しかし、語られたことは、興味深い論争を引き起こすには十分だと思うし、また、そのような論争が起こることを、期待する。(p. 225)

 

徳認識論についてのソウザの結論部分。やはり、諸々の徳についてより詳述してほしかった。

 

11.バンジョーへの回答

11.7.比較――外在主義・整合主義・基礎付け主義

たぶん私たちは、自分がよい千里眼を持っていると考えることよりも、よい内省を持っている(誤りなく所与を見なす)と考えることのほうに、はるかによい理由を持っている。それは、たまたま私たちの千里眼が事実上同時に信頼できたとしても変わらない。この点は議論の余地がないように思える。はっきりしないのは、千里眼と内省の間にある認識的差別の理論的根拠である。なぜ、たんに、一方について私たちはそれを支持する認識的視野を享受するが、他方については享受していないと言うことによってこれらを区別しないのか?なぜ、むしろ、バンジョーのように、どちらも可謬的だが、一方は組み込まれた一応の(しかし阻却可能な)正当化を持って発生するが、他方の発生は、初期状態としてそのような特権的地位を伴わない、という言い方で区別するのか?このような差別を何が正当化するだろうか?専断的な教条主義だという批判からどのようにしてその身を守るのか。

ここでのバンジョーの回答は、カント的なありふれた「これしかない」路線である。私たちは、内省が、それを保証する何の視野にも助けられないで認識的な財を発生させていることを受け入れた方がよい。さもなければ、私たちはもっとも深い懐疑主義に陥り、私たちを取り巻く世界についての豊かな信念はもちろんのこと、あらゆる事がまったく正当化されないことになる、というわけである。(p. 295)

 個人的に、バンジョーに対する非常にクリティカルな批判だと思う。この問いかけに対するバンジョーの応答をぜひ見てみたい。

 

11.8.「デカルトという選択肢」

このような推論には、いくつかの重大な混乱がある。その一つに、基礎付け主義と整合主義が、もともとの定義として二項対立であるという想定があるが、これは全くの誤りである。穏健な整合主義は、非信念的要素、つまり信念というフィルターを通して働かなくても、それ自体でプラスの認識的価値を与えるような経験が存在することを要求する。つまり穏健な整合主義は、次の二つの条件を両方とも満足させる、さらなる正当化の源泉が存在する可能性を認めている。(1)それは信念を含んでいて、(2)それは非信念的な基礎的源泉と結びつくことによって、ある人のもっとも基盤的な信念の認識的地位を生み出す。(p. 297)

註の33を見ると、このような見解こそソウザが長年唱導してきたものだということが理解される。ソウザはSusan Haackにならって、それを「基礎付け整合主義(foundherentism)」と呼んでいる。