サラマンドラの水槽

μία γὰρ χελιδὼν ἔαρ οὐ ποιεῖ, οὐδὲ μία ἡμέρα. (Arist. EN. 1098a18-19)

「アリストテレス的学の経験主義と第一原理」

A Companion to Aristotle (Blackwell Companions to Philosophy)

A Companion to Aristotle (Blackwell Companions to Philosophy)

 

Blackwell Companion所収の、Michael Ferejohn ' Empiricism and the First Principles of Aristotlelian Science 'を読みました。Ferejohnは以下の本の著者でもあります。

 

The Origins of Aristotelian Science

The Origins of Aristotelian Science

 

この論文の目的は、『分析論後書』B巻第19章に従来適用されていた、「経験主義的」解釈への反論です。

 

第I節では、B巻第19章を「経験主義」とする論者が、そのラベリングに無頓着であるということが明らかにされます。たとえば、Barnesによる1993年のコメンタリーはまさに、Ferejohnが指摘するような解釈をとっています。

 

第II節では、仮にB巻第19章を経験主義的であると解した時の、想定されるその内実が論じられます。ここでFerejohnが提出するひとまずの結論は、アリストテレスの主張は「すべての知識の内容が知覚経験によって与えられなければならない」というものでもなければ、「知覚対象は常に個物なので、知覚によってもたらされる内容は常に個別的である」というような' ultra-empiricist 'でもないということです。このような短絡的な議論をFerejohnは拒否します。

 

第III節では、Lesher による1973年の論文の検討を通じて、B巻第19章は結局のところ『後書』のappendixであるという主張がなされます。このような主張がなされる背景には、『後書』の主題である論証的知識の実例がB巻第19章には存在しないということがあります。ここで重要なことは、FerejohnがLesherと同じく、「第一原理=前提命題」という立場をとっていることでしょう。また、B巻第19章におけるエパゴーゲー(帰納推論)が(科)学者に特有のものではないと主張していることも重要です。この点に関しては、私も全面的に同意できます。

 

第IV節では、このブログでも直前の記事で扱ったKosmanの1973年の論文への反駁が行われます。Kosmanの主張は、特定の学における或る命題を理解するためには、その学のうちのすべてないしほとんどの命題を理解していなければならないというものです。これは科学哲学と親和性のある解釈であり、' coherence theory 'のようなものであるとFerejohnは述べます。

一見説得力のあるKosmanの解釈ですが、問題がないわけではありません。その中でも一番の問題点は、Kosmanの解釈がエピステーメーについてのアリストテレスの一般的な理解と噛み合っていない点です。Kosmanのような解釈をとるとすれば、エピステーメーの正当化の問題は無限遡及に陥る可能性が常にあります。そしてそれこそ、アリストテレスが『後書』A巻第3章で忌避したものでした。

結局のところ、アリストテレスが求めているものは、Kosmanが提唱するような「関係的原理」ではなく、客観的で実在的である「非関係的原理」です。アリストテレスがこれを求めていたことは、『後書』A巻第2章における「無中項の前提命題」の条件から裏付けられるとFerejohnは述べます。このことから、FerejohnはB巻第19章を解釈する際にA巻第2章との繋がりを重視していると理解することもできるでしょう。

 

Ferejohnの議論は、B巻第19章の経験主義的な解釈を拒否するというところで終わっています。彼はB巻第19章については積極的な解釈を提出することは困難であり、それはアリストテレス自身が「第一原理」や「ヌース」といった問題に煮え切らない態度をとっていることが原因であると述べます。

 

Ferejohnの論文は、アリストテレスの解釈者が無意識のうちに前提としていることを洗いなおすという目的を持つという点ですぐれたものです。ですが、B巻第19章をほとんど完全に『後書』の文脈から切り離したり、テクストの問題から積極的な解釈を拒否するなど問題のないものではありません。本論文については、あくまでも『後書』解釈の難しさを示した論文として読むのが正しい態度であると思われます。

 

 

 

関連記事

「アリストテレス『分析論後書』における理解、説明、そして洞察」