サラマンドラの水槽

μία γὰρ χελιδὼν ἔαρ οὐ ποιεῖ, οὐδὲ μία ἡμέρα. (Arist. EN. 1098a18-19)

「アリストテレス『分析論後書』における理解、説明、そして洞察」

Exegesis and Argument: Studies in Greek Philosophy Presented to Gregory Vlastos

Exegesis and Argument: Studies in Greek Philosophy Presented to Gregory Vlastos

 

ギリシア哲学に関する論文集の中から、L. A. Kosman ' Understanding, Explanation and Insight in Aristotle's Posterior Analytics ' という論文を読みました。

 

本論文の目的は、タイトルにもある三つの概念の繋がりを明らかにすることです。

 

第I節から第III節までは本論のための準備が進められます。そこで最も重要なことは、「理解するということは、説明するということが可能だということである」(p. 380)という言明でしょう。エピステーメーとアイティオンの繋がりをあらわすこの言明は、現在では常識的な見解となっています。また、エピステーメーに緩い意味と厳密な意味があるという論点も見逃せません(p. 382)。先のものと対照的にこの問題は、現在でも議論が活発なものです(cf. Perelmuter (2010) )。

 

第IV節では知識の起点であるところの「第一原理」の問題が論じられている、『後書』B巻第19章が扱われます。ところで、この第一原理とは説明される事象(e.g. 「月蝕」「雷鳴」)に特有のものであり、それらを説明するものですが、ではその原理がまさにそれが説明する当の事象の原理であることを保証するものは何なのでしょうか。Kosmanはここで『天体論』Γ巻第7章を引き合いに出します。そこで述べられているのは以下のようなことです。

 

というのは、自分たちの原理を真実であると考えるので、そこから帰結することは何でも認めてしまって、あたかも、ある原理については帰結の側から、とくに最終的な帰結[目的]の側から判定しなくともよいと考えているかのようだから。(池田訳, p. 176)

 

つまり、第一原理は帰結あるいは目的の側から判定されなければならないということです。原理が正しく選ばれたかどうかの吟味は、その原理から正しい目的を達成できるかどうかということなのです。

 

第V節では、ヌースとは第一原理のみでなく、「すべての」説明的原理を把握している状態だと言われます。そして第VI節では、「究極的には、アリストテレスにとって、説明する過程というのは諸原理を獲得し理解するようになる過程である」(p. 389)と言われ、ヌースとは世界の構造を把握するように、それ自身がヌースである神によってデザインされているということも明らかにされます。

ここで、タイトルにあった三つの概念がすべてつながったことになります。つまり、理解することは説明ができるということに他ならず、説明するということはその説明に含まれる原理を獲得し理解することなのです。Kosmanの論文は、この三者の関係をテキストを丁寧に追いつつ明らかにしたものと言うことができるでしょう。最後の第VII章では、『形而上学』とも『倫理学』とも異なる性格を持つ『後書』の可能性が示唆されて論が閉じられることになります。

 

色々と示唆的な内容を含んでいる本論文ですが、一番の特徴は『後書』全体の見取り図を著者が描いてくれていることです。この論文を読めば、Kosmanの考える『後書』が見えてきます。それを足がかりにして、われわれも『後書』を自身で読んでいかなければなりません。