サラマンドラの水槽

μία γὰρ χελιδὼν ἔαρ οὐ ποιεῖ, οὐδὲ μία ἡμέρα. (Arist. EN. 1098a18-19)

『魂論』集中講義五日目

五日目。

 

B巻第5章の終わりを片づけ、当初からの予定を少し変更して第12章へと直接とぶ。

私が予てから注目していた部分が出てきたこともあり最高に楽しかった。

 

まず問題となるのは以下のテクスト。

  

しかし、感覚と知識には違いがあり、その違いは、感覚するものの現実態を作り出すものは外的なもの、つまり見られることができるものや聞かれることができるものであり、諸感覚対象の残りのものどもについても同様だというところにある。そしてその相違の理由は、現実態における感覚は個別的なものについてあるが、知識は普遍についてあるということである 。しかし普遍は、或る意味においては魂自身のうちにある。

διαφέρει δέ, ὅτι τοῦ μὲν τὰ ποιητικὰ τῆς ἐνεργείας ἔξωθεν, τὸ ὁρατὸν καὶ τὸ ἀκουστόν, ὁμοίως δὲ καὶ τὰ λοιπὰ τῶν αἰσθητῶν. αἴτιον δ’ ὅτι τῶν καθ’ ἕκαστον ἡ κατ’ ἐνέργειαν αἴσθησις, ἡ δ’ ἐπιστήμη τῶν καθόλου· ταῦτα δ’ ἐν αὐτῇ πώς ἐστι τῇ ψυχῇ. (417b19-24)

 

 感覚と知識の相違点を挙げるこの箇所は、B巻第5章の趣旨であるところの感覚論の文脈との微妙なずれがある。しかし、「知識」という言葉やその例がB巻第1章から出てきていたことを考えれば、この箇所でなくてもどこかでアリストテレスは知識について説明せざるをえなかったのではないか。 

さて、「感覚は個別的なものについてあるが、知識は普遍についてある」という言明では、感覚と知識の対象がそれぞれ属格で表されている。このことは、『後書』B巻第19章100a17-100b1での「感覚は普遍についてある(ἡ δ' αἴσθησις τοῦ καθόλου ἐστιν )」という言い方を否が応でも思い出させる。面白いのは、同じような表現でまったく逆のことをアリストテレスが述べていることであろう。「『後書』の感覚は感覚じゃないんじゃないか」という意見も出たが、私はむしろ『後書』の感覚は知性を背景にした感覚だと言いたい*1。『魂論』のこの箇所で真逆のことが言われているのは、感覚が通常は個別的なものについてあることを補強するものではあっても、感覚が普遍的なものについてありえないことを含意するとまでは言えないと思うからである*2

 

また、上記の箇所と繋がりそうなのが次の一文。

 

以上のことは、感覚されるものの知識についても同様であり、それは感覚されるものが個別的なものであり外的なものに属するという同じ理由によってそうである。

ὁμοίως δὲ τοῦτο ἔχει κἀν ταῖς ἐπιστήμαις ταῖς τῶν αἰσθητῶν, καὶ διὰ τὴν αὐτὴν αἰτίαν, ὅτι τὰ αἰσθητὰ τῶν καθ’ ἕκαστα καὶ τῶν ἔξωθεν. (417b26-28)

 

正直この箇所は読み飛ばしていたが、指摘があったように確かに「感覚されるものの知識」という表現はよくわからない。これはひょっとすると『後書』の「感覚は普遍についてある」ということの補強になるかもしれないが、コメンタリーや研究書を読まないと結論づけられない箇所だろう。

 

まだまだ気になるところはあったが、いずれ書くことにしてひとまず終わります。

 

五日間は長かったですが、久しぶりにギリシア語にどっぷりつかれて本当に楽しかったです。本当にありがとうございました。

 

集中講義の後には祇園でお茶。色々とお話を伺う。

 

その後、博多で副業先の忘年会。

二次会はボーリング。明日は南区でお仕事。

*1:そしてこのことは、『ニコマコス倫理学』Z巻における感覚についても当てはまると思う

*2:ついでに言えば、個別的なものについての感覚はこの文脈で扱われている固有感覚ではなく、付帯的感覚ではないだろうか