サラマンドラの水槽

μία γὰρ χελιδὼν ἔαρ οὐ ποιεῖ, οὐδὲ μία ἡμέρα. (Arist. EN. 1098a18-19)

『ニコマコス倫理学』第一回~第三回読書会

Ethica Nicomachea (Oxford Classical Texts)

Ethica Nicomachea (Oxford Classical Texts)

Nicomachean Ethics

Nicomachean Ethics

ニコマコス倫理学 (西洋古典叢書)

ニコマコス倫理学 (西洋古典叢書)

ということでもう一つの読書会です。

こちらはスカイプで、後輩A君と遠方のBさんとの三人でやっています。

テクストは『ニコマコス倫理学』のZ巻。だいたい一回に一章ずつ、私がギリシア語を、A君がフランス語を、Bさんが英語のテクストを集中的に読んできて議論を行う形式です。この読書会は現在すでに三回行われており、Z巻第3章まで終了しています。以下では、第1章から第3章の内容を簡単にまとめていきたいと思います。

 

第1章で論じられていることは二つの部分に分けられます。第一の部分は、これまで『ニコマコス倫理学』で論じられてきたことの復習も兼ねた「中」(μέσον)や「正しきことわり」(ὁ λόγος ὁ ὀρθός)といったことについての説明、そして、これ以降の目的が「正しきことわりとは何であるか、すなわち、これの基準(ὅρος)とは何であるか」の探求にあるという宣言です。この宣言は明らかに、B巻第6章における人柄の徳の定義を受けたものです(cf. B巻第2章1104a11-27)。そしてここから、個々の思考の徳についての議論が始まっていきます。

第二の部分は、魂についての説明から始まります。魂にはことわりを持つ部分と持たない部分があり、ことわりを持つ部分は「学的部分」(τὸ ἐπιστημονικόν)、ことわりを持たない部分は「勘考的部分」(τὸ λογιστικόν)と呼ばれます。そして、これら二つの部分の最善の状態が「徳」(ἀρετή)であり、その徳とは魂のそれぞれの部分に「固有の機能」(τὸ ἔργον τὸ οἰκεῖον)であると述べられるのです。「機能」という言葉が出てきていることから、Irwin (1999), p.239の述べるように、アリストテレスがB巻第6章1106a15-17における人柄の徳についての説明と同じような仕方で、これから思考の徳を説明しようとしていることが理解されます。機能という観点からの徳の説明は「エルゴン・アーギュメント」と呼ばれ、第一巻第7章において詳細に論じられているものです。

つまり、アリストテレスはZ巻の冒頭で、1.「中」や「正しきことわり」という観点と、2.魂の知性的部分の「機能」という観点のそれぞれから思考の徳に迫ろうとしているのです。この二つの接続については慎重な議論が必要かもしれませんが、しかし意図されていることは明晰です。

 

次に、第2章では、実践的真理についての議論が行われます。まず、行為(πρᾶξις)と真理(ἀλήθεια)を支配するものとしての魂の三部分が挙げられ、それらはそれぞれ、知覚(αἴσθησις)、知性(νοῦς)、欲求(ὄρεξις)であることが述べられます。このうちの知覚は行為の原理から除外され、知性と欲求が探求の対象となります。

ここで注目されるのが「選択」(προαίρεσις)という概念です。アリストテレスは「選択が立派なものであるとすれば、ことわりは真であり、欲求は正しくなければならず、同じものを、ことわりは肯定し、欲求は追求しなければならない」(1139a24-26)と述べます。ことわりが偽であったり、欲求が正しくなかったりすれば、選択は立派なものではない、つまり、「知性や思考を欠いても、人柄の状態を欠いても、選択は成立しない」(1139a33-35)のです。第2章は、「知性的部分のそれぞれの機能は真理[認識]である。ゆえに、そのそれぞれの部分をもっとも真理に到達させるような魂の状態(ἕξις)が、両方の部分の徳なのである」(1139b12-13)という言明で終わり、この「魂の状態」のそれぞれに考察は移っていくことになります。

 

さらに、第3章では、まず、見解(ὑπόληψις)や思いなし(δόξα)ではなく、「技術」(τέχνη)、「知識」(ἐπιστήμη)、「思慮」(φρόνησις)、「智慧」(σοφία)、「知性」(νοῦς)の五つが、第2章末尾で述べられた魂の状態であることが宣言されます。そこから早速、「知識とは何か」という議論が始まります。私自身の研究対象が「アリストテレスにおけるエピステーメー(知識)論」ということもあり、ここは精読が必要な箇所です。問題となるのは、この箇所と『分析論後書』における議論がどの程度噛み合っているのかということです。以下でその議論を追っていきます。

アリストテレスは、「知識すること」(ἐπίστασθαι)は他ではありえず、「学的に知られるもの」(τὸ ἐπιστητόν)は必然的であり、ゆえに永遠的なもの(ἀίδιον)であると述べています。「他ではありえない」ということと「必然的」というのはほぼ同じことであるので、知識は必然的なものに関わると言い換えてよいでしょう。その後の「永遠的なもの」というのは、『後書』A巻第8章75b22-24を参照すれば、「端的なもの」と同定されていることが明らかです。さらに、『後書』のA巻第2章や第4章では「端的な知識は他ではありえない」ということが前提としてあるため、そこも加味して考えれば、

 

知識すること―必然的な(他ではありえない)こと―永遠的なこと―端的なこと

 

というように、アリストテレスの知識についての考えを整理することができます。ここで言われている「必然性」の内実を、『後書』A巻第4章や第6章の「自体性」(καθ' αὑτό)についての考察から明らかにすることが私自身の課題であったりします(12月にこのトピックで研究発表予定)。

 

2013/2/19追記

→発表しました(http://salamandratank.hatenablog.com/entry/2012/12/03/175908

 

 

さて、知識についての議論はまだ続きます。知識についてのさらなる規定は教授可能性と学習可能性です。そして、教えること(教授)はすでに知られていることから行われると、すなわち帰納(ἐπαγωγή)か推論(συλλογισμός)によると述べられます。ここではアリストテレス自身が『分析論』を名指ししており、内容からも『後書』A巻第1章冒頭のテクストが意図されていることが理解されます。この帰納と推論についての議論は原理(ἀρχή)の議論につながり、「帰納は原理を導くのである」(1139b31)と結論されます。帰納と原理の問題については、アリストテリアンの大好きな『後書』B巻19章において「普遍の把握」という問題も絡めて詳しく論じられています。現時点でこの問題にコミットする勇気は私にはありませんが、近いうちに触れなければいけない問題です(できれば来年度中に……)。

そして、原理を知ることが結論を知ることよりも優先されるということが論じられて、知識についての議論は終わります。特に「知識」という枠組みの中でこのように原理を優先するのはアリストテレスの基本的な態度であり、たとえば、前回の記事でも話題にした『後書』A巻第2章71b9-12では「知識すること」について次のように述べられています。

 

或るもの[X]を、ソフィスト的な付帯的な仕方ではなくて、端的に知識しているとわれわれが考えるのは、(1)事物(πρᾶγμα)[X]がそれによってそうである原因[Y]を、それ[Y]がその事物[X]の原因であり、(2)これ[X]が他ではありえないと知っていると考える時である 。(A2, 71b9-12)

 

(1)において「原因」(原理)を知るということ、(2)において「他ではありえない」(必然的)ということを知るということの二つの条件が挙げられています。この両者とも、『ニコマコス倫理学』における知識の規定のうちに登場したものです。以上から、『分析論後書』と『ニコマコス倫理学』における知識についての議論はほぼ同じ文脈のうちにあることが理解されると思われます。倫理学的な著作のうちにありながら、Z巻第3章は明らかに論理学的な著作との関連が深い章なのです。

 

 

 

不思議な事に前回よりも長い記事になってしまいました。本当に不思議です。もともとこのブログは私自身のメモ帳にする予定だったのでこれでいいのかもしれませんが……。もちろん、皆様が『ニコマコス倫理学』を読む際に、この記事が少しでもお役に立てれば幸いです。『自然学』と並行して、読書会情報は随時更新していきます。