サラマンドラの水槽

μία γὰρ χελιδὼν ἔαρ οὐ ποιεῖ, οὐδὲ μία ἡμέρα. (Arist. EN. 1098a18-19)

『自然学』第一回読書会

Physica (Oxford Classical Texts)

Physica (Oxford Classical Texts)

Aristotle's Physics: A Revised Text With Introduction and Commentary (Oxford University Press academic monograph reprints)

Aristotle's Physics: A Revised Text With Introduction and Commentary (Oxford University Press academic monograph reprints)

現在、九州大学箱崎キャンパスで、アリストテレス『自然学』の読書会を主催しております。九州大学哲学研究室で現在行われている読書会・勉強会の情報についてはここを参照してくださいませ。

 

8月31日(金)に行ったのが第四回にあたり、ようやくA巻第2章までを読み終わったところです。Facebookに書いたことの繰り返しになる部分もありますが、テクストとそれをもとにして行われた議論の内容をメモ。まずは第一回に行われた第一巻第1章について。

 

第1章(第一回目)は、自然学という領域における、「原理」(ἀρχή)探求の重要性を宣言することから始まります。原理が「原因」(αἴτια)や「構成要素」(στοιχεῖα)とすぐに言い換えられることも大事ですが、私の関心からは「知ること」(εἰδέναι)「知識すること」(ἐπίστασθαι)「認識すること」(γνωρίζειν)といった、いかにも知識論におけるような言葉が並んでいるのが印象的でした。それは結局のところ、これから行われる探求が自然についての学[体系的知識](ἐπιστήμη)であるからでしょうが、以下の部分などは明らかに『分析論後書』A巻第2章71b9-12における「知識すること」(ἐπίστασθαι)の条件を想起させるものです。

 

というのも、第一の諸原因や第一の諸原理をその構成要素まで知るようになる時に、それぞれのものを知っている(γιγνώσκειν)とわれわれは考えるからである。(Ph. A1, 184a12-14)

 

無論、この二箇所の繋がりを論じるためにはἐπίστασθαιとγιγνώσκεινの関係を明確にしなければなりませんが、アリストテレスの知識論の大前提である「原因から知る時にその人はよく知っているのである」ということが見えてくる箇所でした。

 

2012/11/14追記

Burnyeat, ’Aristotle on Understanding Knowledge’, pp. 106-107にこのことへの言及あり。『後書』でのἐπίστασθαιの位置にγιγνώσκεινが、γιγνώσκεινの位置にγνωρίζεινがきていると述べられている。

 

その後には、アリストテレスの方法論としてよく知られている「われわれにとって(ἡμῖν)より可知的でより明らかなものどもから、自然において(φύσει)より明らかでより可知的なものへ」(184a16-18)ということの説明があります(たとえば、『ニコマコス倫理学』Z巻第3章1029b3-12、『魂論』B巻第2章413a11-12『形而上学』Z巻第3章1029b3-12等の中でもこの方法論が用いられています)。ここで注意を払うべきなのは、「われわれにとってより可知的でより明らかなもの」と「混然としたものども」(τὰ συγκεχυμένα)が同定されていることでしょう。というのも、このことに注意をしておかないと、その後に述べられていることがよく理解できないからです。

それは「[われわれの探求は]普遍的なものども(τὰ καθόλου)から特殊なものども(τὰ καθ' ἕκαστα)へと進むべきである」という記述です。アリストテレスは通常、個別的なものどもから普遍的なものどもへと探求を進めます。この食い違いはどのように解されるべきなのでしょうか。先の文への理由づけとしてアリストテレスは次のように述べます。

 

というのも、全体的なもの(τὸ ... ὅλον)はわれわれの感覚に対してより可知的であり、普遍的なものは或る全体的なものだからである。(184a24-25)

 

 つまり、『自然学』のこの箇所では、

●「われわれにとってより可知的でより明らかなもの」=「混然としたものども」=「全体的なもの(普遍的なもの)」

●「自然において(φύσει)より明らかでより可知的なもの」=「特殊なもの」

という図式が成り立っているのです。先ほど触れたアリストテレスの通常の用法では、「普遍的なもの」が端的に可知的なものであることが非常に多いのですが、しかしここでは、Ross (1936), p.457が述べているように、「普遍的なもの」ということが通常の用法とは異なっています。ゆえに、字面だけを追うとアリストテレスの考えがよくわからなくないという事態にもなります。そのためか、参加者からの質問が多く出た箇所でもありましたが、上のような図式にまとめれば、この箇所の議論を追うことはそこまで困難ではないと思います。

さて、この章の最後に、アリストテレスは「説明方式」(λόγος)と「名」(ὄνομα)を先の図式に当てはめようとしています。たとえば、「『円』のような名は或る全体を無差別に示しており(σημαίνει)、円の定義(ὁρισμός)は特殊なものどもへとそれを分割する」(184b2-3)と述べ、名を全体的なものと、説明方式を特殊なものと同定しているかのように見えます(ここでのλόγοςとὁρισμόςはほとんど同じ事を指している)。ここの「名」(ὄνομα)が「名目的定義」(nominal definition)を意味していると主張する研究者もいますが、そういった事情を抜きにしても、いささか議論の展開が唐突に見えたということもあり、この最後の部分でアリストテレスが何を主張したいのかが私には不明瞭でした。要検討箇所です。

以上のことから理解されるように『自然学』第一巻第1章は、「原理」探求という目的を宣言するだけでなく、色々な問題をはらんだテクストでもあるため、精読する価値が十分にあると思われます。

 

今日は長くなったのでこのくらいにして、また後日、第一巻第2章についてもまとめたいと思います。次回からはもう少し簡潔にまとめる努力をするべきですね……。

 

 

 

読書会の内容とは関係ないのですが、その後に行った暑気払いコンパも楽しいものでした。こういった集まりはこれからも定期的に行なっていきたいものです。