サラマンドラの水槽

μία γὰρ χελιδὼν ἔαρ οὐ ποιεῖ, οὐδὲ μία ἡμέρα. (Arist. EN. 1098a18-19)

Kenny, Anthony, ‘ Practical truth in Aristotle’

ご無沙汰しております。

仕事でも私事でもごたごたが多く、なかなか更新できませんでした。

 

このたび九州大学名誉教授の松永雄二先生を中心とした会である「西日本古代哲学会」にて発表をすることになりました。

題目は「アリストテレス『ニコマコス倫理学』における実践的真理について」と、大風呂敷を広げたものになっております。

つい先程完成させ原稿送付を行ったのですが、書いた私から見てもひどいものでした。今年、熊本である日本倫理学会でこの題目にて発表することを目標にしているので、西日本古代哲学会当日での発表を通じてリバイズしていければと思います。

 

上記のような事情があったため、ここ最近は実践的真理についての文献を漁っていました。その中でも比較的新しい文献である、Anthony Kennyによる‘ Practical truth in Aristotle’についてのメモを、勉強がてらここに載せておこうと思います。

ちなみにこの論文は、Jonathan Barnesへの献呈論文集であるEpisteme, etc.に寄稿されたものです。Kennyのもの以外にも、BurnyeatによるEpisteme論文を始めとして面白いものが多数収録されておりますので、ぜひご購入になってお読みください。

 

 

Episteme, Etc.: Essays in Honour of Jonathan Barnes

Episteme, Etc.: Essays in Honour of Jonathan Barnes

 

 

実践的真理についての文献は多々あるが、真理の担い手が何であるかについては意見の一致を見ていない。

真理の担い手は、アンスコムにとっては行為であり、リアにとっては人であり、ブローディとロウにとっては心である。
→いずれも間違い。真理とは或る一定の状態や活動の性質であると言うべき。これを言うためにはプロアイレシスについて述べておく必要がある。
→翻訳について。プロアイレシスにはresolution、ロゴス・ヘネカ・ティノスについてはwhereforeを、プラークシスにはconductをあてる。
アリストテレスはΓ巻において、ドクサが真偽に関わるのと異なり、選択はよきものと悪しきものに関わると言っている。トマスの引用からも明らかなように、選択のうちに実践的真理は置けない。
→実践的推論の例は制作に関わるものばかりで選択の例を考える手助けにはならない。
→人柄の徳に関わる実践的推論を見よう。結果として、勇気や誠実さのための欲求が正しき欲求なのである。
→正しき欲求に随伴しないような真理のケースとはどんなものか。
彼女とのセックスはとても快い(真)
もし訪ねれば彼女はついてくるだろう(真)
だから私は頑張ってみよう(選択:悪)
この選択は、「人生の目的は最善のセックスを為すことである」という偽なる普遍的前提に支えられている。
→欲求のタイプを区別する必要がある。善き生への欲求、勇気への有徳な欲求。
→以下の推論には行為におけるいかなる帰結もない。
勇気ある人は危険だが戦略的に重要である遠征を進んで行う。
この遠征は危険だが戦略的に重要である。
ゆえに、勇気ある人がすすんでなすだろう。
これは実践的推論の産物であるところの真理であるが、実践的選択を導くような真理ではない。
→実践的推論の真理とは、前提の真理だけでなく論証の妥当性も含む。この真は「健全」と呼んで差し支えない。実践的推論の目的は善いものである。
→実践的推論に規則があるとすれば、理論的推論が真なるものから真でないものには決して移行しないように、善きものから善くないものへは移行しないというところに求められる。実践的前提の善さは適切に振る舞うことの選択であるところの結論へと通じている。
→実践的推論は「無効化可能性(defeasibility)」という特徴を持っている。理論的推論の場合には、新たな前提を加えることで、先立つ妥当な推論を無効化することはできない。これは、一連の前提から導かれる結論が、それらを含むより広いものどもから導かれるだろう、ということである。善として理性的に評価されることのできる行為の連続は、さらなる前提が付け加えられればもはや合理的であることはできない。この無効化可能性という特徴は、アリストテレスのみならずすべての論理学者に対して、実践的推論の定式化を阻むものである。
→結論:バーンズがアンスコムの「『真』や『偽』という述語は、単にその用法の拡張やいい抜けるための仕方ということではなく、厳密かつ適切に行為に適用される」という主張を排除しているのは正しい。しかしアンスコムもまた、「アリストテレスにおける実践的真理は普通の真理(plain truth)とは異なっている」と述べている点で正しい。実践的真理は、理論的推論の健全性のそれとは異なる基準に依拠しているような、そのような実践的推論の健全性を意味するからである。それらの基準が何であるかということは読者への課題として残されなければならない。