サラマンドラの水槽

μία γὰρ χελιδὼν ἔαρ οὐ ποιεῖ, οὐδὲ μία ἡμέρα. (Arist. EN. 1098a18-19)

行橋行きなど

8時起床。しばらくぼーっと呆けている。

14時行橋。

昼食は「みろく屋」というラーメン屋で普通のラーメン(570円)。まあまあうまい。博多ラーメンとも微妙に違うし、面白いとんこつでございました。

車中ではHarariを行きで読み終わる。結論は安易すぎてあまり面白くない。まあでもいずれ近いうちにまとめます。

帰りに読んでいたのはAmazonマーケットプレイスから以前に届いていたこれ。

 

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)

精神指導の規則 (岩波文庫 青 613-4)

 

 

某読書会に参加できない罪悪感が読ませている気もするが、ともあれ少しづつ進んでいる。第三規則における直観(intuitus)についての言及をひとまずメモ。

 

「直観」というのは、感覚の変わりやすい証しでもなく、虚構の想像力の誤れる判断でもなくて、純粋なかつ注意せる精神の把握、しかも理解するところについて何の疑いをも残さぬほど容易な判明な把握である。換言すれば、ただ理性の光からのみ生れ、演繹よりも単純であるゆえに一層確実であるところの、純粋なかつ注意せる精神の不可疑の把握、である(p. 19)

 

なお、「直観」という語の新たな用い方、及び今後私がこれと同様に通常の意味を離れて用いざるをえぬであろう他の語の用法が、奇異に感ぜられることのないように、ここで一般的に注意しておくが、私は、かかる名称が学院で近来どういうふうに用いられ来たったかを少しも顧みないのである。というのは、同じ名称を用いて全く異なることを意味せしめるのは至難であろうから。私はただ、一々の語のラテン語としての意味を注意するだけである。そして特別な語の見当らぬ場合は、最も適当と思うものを、私自身の意味に転用するであろう。(p. 20)

 

けれども第一原理はただ直観によってのみ知られる。(p. 21)

 

アリストテレスのヌース概念はおよそ2000年間でこういう変容を被ったんだ、というのが素朴な印象。変容というよりは一部を切り離して用いている感じかもしれない。哲学における「直観」概念を(排除とまでは行かなくとも)制限したい私にとっては、議論する際に拠るテクストの一つになると思う。

 

デカルトを読んでいると(邦訳だけれども)心が落ち着く。他の哲学者の著作ではあまり味わえないです。