サラマンドラの水槽

μία γὰρ χελιδὼν ἔαρ οὐ ποιεῖ, οὐδὲ μία ἡμέρα. (Arist. EN. 1098a18-19)

『魂論』集中講義四日目

四日目。

第5章を粛々と読んでいく。

話題になったことはたくさんあったが、自分にとって重要なことをあまり見つけられなかったことは残念。私の怠慢です。

 

ひとまず、可能態と現実態の単純ではない(οὐκ  ἁπλῶς 峻別方法が明示されたことが最も大事だと思う。そのことは417a22-417b5で語られており、それぞれ現在の研究者によって(i)第一可能態、(ii)第二可能態ないし第一現実態、(iii)第二現実態と呼ばれている。

アリストテレス自身はこの三つの峻別のため、或る人が「知識ある者」と言われる際の例を使用している。

まず(i)の場合には、当の人間が知識ある者の類(γένος)に属することによって、「知識ある者」と言われる。つまり、まだ知識能力を十全に発揮できない赤子であっても、いずれその能力を学ぶことによって身に付けることができるという点で「知識ある者」なのである。これは純粋な意味で可能態であるため、「第一可能態」と呼ばれる。そして、この際の学びによって「性質変化」が生じるとはっきり述べられている(417a31)。

次に(ii)の場合には、知識を持っている当の人間が「望めば観照することができる」ということによって「知識ある者」と言われる。教育によって赤子は立派に知識能力を発揮できるようになった。この状態は、実際に知識を行使する点に対してはいまだ可能態の状態にあるため「第二可能態」と呼ばれるが、しかし現にその能力を持っているために、同時に「第一現実態」と呼ぶことも可能である。

最後に(iii)についてであるが、これは「厳密な意味で(κυρίως)」知識対象を知っているがゆえに、「知識ある者」と言われる。知識能力を現に行使しているということこそが完全な意味での現実態、つまり「第二現実態」である。(ii)から(iii)への移行は「(i)とは他の仕方によって」、つまり性質変化とは異なった仕方で「活動することへと変化した」と言われることにもなる。

 

 

集中講義の後は研究室で某留学生の修論日本語チェック。

合計十万字をこえるものの一割しか終わらなかった。この仕事は年始に食い込むことが決定。いずれにせよ、次回からはもう少しペースアップしないとまずい。

 

帰宅してからアーリータイムズのイエローラベルをロックで飲む。

これが一本家にあるだけで安心感がぜんぜん違う。

 

ブログタイトル下を微妙に変えて就寝。