サラマンドラの水槽

μία γὰρ χελιδὼν ἔαρ οὐ ποιεῖ, οὐδὲ μία ἡμέρα. (Arist. EN. 1098a18-19)

『魂論』集中講義ニ日目

集中講義二日目。『魂論』B巻第1章後半部分から第2章についてかなりディープな議論がなされた。
特に問題になったのは第2章414a4-14。

さて、①「それによってわれわれが生き感覚するところのもの」は二つの仕方で言われるのであり、それはちょうど②「それによってわれわれが知識するところのもの」が二つの仕方で言われるようであるので(われわれは一方のものを知識 と言い他方のものを魂と言うのであり、このうちのいずれか一方によってわれわれは「知識する」と言うのである)、③「それによってわれわれが健康であるところのもの」についても同様に、一方では健康と言い、他方では身体の或る部分ないし身体全体と言う。そして、これらのうちで知識と健康は両者とも形式や一種の形相や説明方式や受容可能なものの現実態であり、知識は知識可能なものの現実態であり、健康は健康になりうるものの現実態である(というのも、作用を受けるものや特定の状態にあるもののうちに、作用するものの現実態は属すると思われるからである)。さて、魂とは第一の意味において「それによってわれわれが生き、感覚し、思考するところのもの」である。従って、それは或る種の説明方式や形相であり、質料や基体ではない。

ἐπεὶ δὲ ᾧ ζῶμεν καὶ αἰσθανόμεθα διχῶς λέγεται, καθάπερ ᾧ ἐπιστάμεθα (λέγομεν δὲ τὸ μὲν ἐπιστήμην τὸ δὲ ψυχήν, ἑκατέρῳ γὰρ τούτων φαμὲν ἐπίστασθαι), ὁμοίως δὲ καὶ ᾧ ὑγιαίνομεν τὸ μὲν ὑγιείᾳ τὸ δὲ μορίῳ τινὶ τοῦ σώματος ἢ καὶ ὅλῳ τούτων δ’ ἡ μὲν ἐπιστήμη τε καὶ ὑγίεια μορφὴ καὶ εἶδός τι καὶ λόγος καὶ οἷον ἐνέργεια τοῦ δεκτικοῦ, ἡ μὲν τοῦ ἐπιστημονικοῦ, ἡ δὲ τοῦ ὑγιαστοῦ (δοκεῖ γὰρ ἐν τῷ πάσχοντι καὶ διατιθεμένῳ ἡ τῶν ποιητικῶν ὑπάρχειν ἐνέργεια), ἡ ψυχὴ δὲ τοῦτο ᾧ ζῶμεν καὶ αἰσθανόμεθα καὶ διανοούμεθα πρώτως—ὥστε λόγος τις ἂν εἴη καὶ εἶδος, ἀλλ'οὐχ ὕλη καὶ τὸ ὑποκείμενον.(414a4-14)


①が二通りの仕方で言われるということを理解するためには、②と③を理解する必要がある。
②については、「知識(ἐπιστήμη)」が形相や現実態であり、魂が知識を受容するものであり、知識しうるものであり、③については、「健康(ὑγίεια)」が形相や現実態であり、身体(やその部分)が健康を受容するものであり、健康でありうるものである。
そうなると、414a12-13から、①については「魂(ψυχή)」が形相や現実態であるが、その受容者についてはこのテクストのどこにも書かれていない。ありうる解釈としては、この章までの議論から身体こそが受容者の位置に来るということだが、根拠を示すのが難しいため保留とされた。

集中講義のあとは副業の都合で南区に。とにかく風か冷たく缶コーヒーの暖かさに救われる。
クリスマスプレゼントはヴィヴィアンのマフラー。大事にします。