『自然学』読書会第二回―第六回
Aristotle's Physics, Books One and Two (Clarendon Aristotle Series)
- 作者: W. Charlton
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr on Demand
- 発売日: 1984/03/29
- メディア: ペーパーバック
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随分間が開いてしまいましたが、『自然学』読書会の続きです。
進んでいる速度は結構遅く、前回で第六回目までが終わりましたが、まだΑ巻第2章と第3章を読み終わったところです。長く、かつ内容がややこしいところですので簡潔にまとめます。
A巻第2章では、「原理」(ἀρχή)の数がいくつあるか、そしてその原理そのものが動くものかそうでないかが問題となります。この際、原理についての探求は〈あるもの〉についての探求と同定されていることに注意するべきでしょう。それに伴って、先行哲学者たちの見解が整理されていくことにもなります。
(註)原理の分割を示す表としては、Ross (1936), pp. 458-459を参照。(ここに再現しようと思ったのですが、ちょっと手間がかかりすぎて無理でした。)
原理ないし〈あるもの〉についての探求を行う際のアリストテレスの戦略は、「すべてのものが一つである」(εἶναι ἕν τὰ πάντα)と述べるような一元論者(monist)に対する反駁から自身の議論を構成していくというものです。その際(1)τὰ πάνταがいかなるものを意味しているのか、(2)ἕνがいかなることを意味しているのかをアリストテレスは論じていきます。このうちでも(2)に関しては、(a)連続的に一つであるのか、(b)分割不可能なものとして一つであるのか、そして(c)説明方式において(λόγῳ)一つであるのかという三つの方向からの議論があります。(a)は部分と全体の話につながるという点で、(c)はこの言い回しが『形而上学』中核諸巻において頻出するという点で重要です。
しかしともかく、原理ないし〈あるもの〉は動くものであり、そして多であるということがA巻第2章におけるアリストテレスの暫定的な結論です。なお、この章の最後では「可能態」(δύναμις)と「完全現実態」(ἐνθελέχεια)という概念も登場しています。
次にA巻第3章では、一元論者のうちでもメリッソスとパルメニデスの議論についての反駁が行われます。アリストテレスは、この両者ともが誤った前提から誤った推論を行なっていると述べ、この観点から反駁を行なっていきます。結果として、〈あるもの〉が一つであるのは不可能であり、多であるという結論が導かれます。
第3章において、パルメニデスへの反駁が長いのは、アリストテレスがそれだけの分量を割く重要性を彼に対して認めていたからでしょう。最初に述べたようにその内容をいちいち取り上げることはしませんが、ここで「受容者」(186a29)とか「付帯性」(186b17-23)について論じられていることには注意するべきです。また、「シモン」(186b22-23)については、『形而上学』Z巻第5章における結合実体の定義可能性という文脈において問題となるものです。
以上のように、A巻第2章―第3章におけるアリストテレスの目的は、一元論者を論敵としたうえで〈あるもの〉が多であることを示すことにありました。アリストテレス自身の枠組がそこに過度に適用されているため、一元論者に対する論駁は論駁になっていないのではないかという質問も出ましたが、確かに、いわゆる自然哲学者に対するアリストテレスの取り扱いがフェアなものかどうかは注意しなければなりません。そういった問題点もはらんでいるアリストテレスの議論をどのように受容するのかは、もちろんわれわれ自身にかかっています。