『デ・アニマ』読書会など
9時起床。今日は祝日。
勉強会の準備を粛々と進める。この間熊本の某氏から、「Hicksは絶対に参照するべきだけど、写本の関係上やはり底本はRossがいい」とアドバイスされたので買ったOCTを使用する。
De Anima (Oxford Classical Texts)
- 作者: Aristotle,David Ross
- 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr (Txt)
- 発売日: 1956/12/31
- メディア: ハードカバー
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20時から読書会。前回でパンタシアーの部分が終わったので、今回はいよいよヌースについてのΓ巻第4章に入る。
そうすると、知性はすべてのものを思惟するので、アナクサゴラスが言うように、支配するためには、つまり認識するためには、混じり気のないものであることが必然である。
ἀνάγκη ἄρα, ἐπεὶ πάντα νοεῖ, ἀμιγῆ εἶναι,ὥσπερ φησὶν Ἀναξαγόρας, ἵνα κρατῇ, τοῦτο δ’ ἐστὶν ἵνα γνωρίζῃ·(429a18-20)
それ故に、知性が身体と混合しているというのも不合理である。というのも、知性は冷であれ熱であれ或る特定の性質ということになるだろうし、感覚能力と同様に或る特定の器官があるだろうことになるからである。しかし実際にはそのような器官は全く存在しないのである。
διὸ οὐδὲ μεμῖχθαι εὔλογον αὐτὸν τῷ σώματι· ποιός τις γὰρ ἂν γίγνοιτο, ἢ ψυχρὸς ἢ θερμός, κἂν ὄργανόν τι εἴη, ὥσπερ τῷ αἰσθητικῷ· νῦν δ’ οὐθὲν ἔστιν.(428a24-27)
感覚能力は身体なしにはありえないが、知性は離存するからである。
τὸ μὲν γὰρ αἰσθητικὸν οὐκ ἄνευ σώματος, ὁ δὲ χωριστός. (429b4-5)
ここで問題なのは、何から「離存する」のか、何と「混じりあっていない」のか、ということである。知性の特殊性を主張したい人々は、知性は身体から離存し、それ故に身体と混合されていないと読むかもしれない。しかし、仮にこの解釈が正しいとしても、Γ巻のこれまでのテクストとの繋がりを考えると、知性の特権性はかなりの程度まで制限される必要があるだろう。
私はむしろ以下のテクストから、知性は純粋可能態であるという意味で、現実的ないし実在的なものから離在し混じりあっていないと考えたい。
従って、知性には、「可能態においてある」ということ以外にはいかなる本性も属さないのである。そうすると、魂のうちの「知性」と呼ばれるものは(私が「知性」と言うのは、それによって魂が思考し判断するところのものである)、思惟する前には、現実態においては〈あるもの〉のうちのいかなるものでもない。
ὥστε μηδ’ αὐτοῦ εἶναι φύσιν μηδεμίαν ἀλλ’ ἢ ταύτην, ὅτι δυνατός. ὁ ἄρα καλούμενος τῆς ψυχῆς νοῦς (λέγω δὲ νοῦν ᾧ διανοεῖται καὶ ὑπολαμβάνει ἡ ψυχή) οὐθέν ἐστιν ἐνεργείᾳ τῶν ὄντων πρὶν νοεῖν· (429a21-24)
知性は思惟する前には、つまり実際に活動する前には、「いかなるものでもない」。知性とはその意味で、実在的なものから離存し、それと混じりあっていないのではないか。
もちろん、以上の読みが正しいかどうかを検証するためには、この厄介な巻をさらに読み進めていく必要がある。